1999年6月30日「しんぶん赤旗」
「日の丸・君が代」法案について、六月二十九日の衆院本会議で、日本共産党の志位和夫書記局長がおこなった質問(大要)は次の通りです。
私は、日本共産党を代表し、「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」とする法案について、小渕総理に質問します。
まず第一にただしたいのは、総理が、この問題についての国民的討論についてどう考えているか、ということです。わが党は、国旗・国歌の問題は、国民にとって重大な問題であって、それを決めていくうえでは、国民的討論が十分に保障されることが何よりも大切であると考えています。
この点で重要なことは、政府が法制化の検討をはじめたことを一つの契機として、いま日本の歴史ではじめて、国旗・国歌をどうするかについて、現に国民的な討論が起こりつつあるということです。マスコミでも自由な討論がはじまり、新聞の投書欄をみても、さまざまな立場からの意見が、毎日のように掲載されています。日本共産党としても、「しんぶん赤旗」の号外を、全国の四千六百万世帯を対象に配布し、討論をよびかけてきましたが、広範な人びとからたくさんの反響がよせられています。
総理、主権者である国民が、国旗・国歌をどうするかについて、歴史上はじめて声をあげ、討論をはじめたことは、歓迎すべきことであり、この国民的討論を十分に保障することこそ政治の責務ではありませんか。今国会中のわずかな期間に法制化を強行しようという態度は、国民的討論を封殺するものではありませんか。総理の見解を問うものです。
政府は、「日の丸・君が代」の法制化を強行する理由として、これが「国民的に定着」しているということをあげています。しかし国民的討論がはじまると、「国民的に定着」という主張がなりたたないことが、ただちにあきらかになりました。この問題について、大手新聞だけでも百二十をこえる投書が掲載されましたが、そのうち「日の丸・君が代」の法制化に賛成するものは二十三にすぎず、圧倒的多数はもっと討論をつくして決めるべきだというものです。NHKが六月十五日に発表した世論調査の結果でも、「日の丸・君が代」の法制化に賛成するという人は四七%、両方とも反対ないしはどちらか一方は反対という人が四八%となっています。
圧倒的多数の国民の日常生活のなかで、その旗や歌が心から親しまれ、生きているということになって、はじめて国民的定着といえます。現状は、そういう実態ではないことはあきらかです。とくに法制化について国論が二分されているもとで、この法案を強行することは、国旗・国歌という国民の重大事を決めるときのやり方として、民主主義にもとる乱暴きわまるものではありませんか。答弁を求めます。
第二は、「日の丸・君が代」が、日本国憲法を土台としたいまの日本の国旗・国歌としてふさわしいか、という問題です。
「日の丸・君が代」にたいして、少なくない国民が抵抗感をもち、同意できないという気持ちをもっていることは、否定できない事実です。総理はこれをなぜだと考えますか。与党首脳からは、そうした人びとを「特殊な思想」「過激な人びと」とする発言がだされました。批判的意見をもつ人びとを異端視する発言は、戦前の暗い時代を想起させるものです。総理もそういう考えですか。
わが党は、少なくない国民が抵抗感や批判をもつことは、個人の好みの問題ではなく、歴史的な根拠があり、日本国憲法にてらして根拠があると考えます。「日の丸・君が代」が、戦後政治の原点である、侵略戦争への反省、国民主権という、憲法の大原則とあいいれない問題点をもっているからです。
「君が代」の問題点は、何よりもその歌詞の内容にあります。この歌は、千年以上前の作者の意に反して、明治以後、「天皇の治めるこの御代が末永く続き栄えますように」という意味づけをされ、そういう歌として「国歌」として扱われてきたことは、動かすことのできない歴史的事実です。戦後、日本の国のあり方が、天皇主権から国民主権へと大転換がはかられたにもかかわらず、こうした天皇統治を礼賛する歌を、歌詞も楽曲もそのままで、小手先の「解釈」の「変更」だけで、あたかも憲法の国民主権の原則と両立するかのように扱うことは、およそ歴史で通用しないご都合主義というほかないものではありませんか。
総理は、さきの答弁で、「君が代」は、大日本帝国憲法の精神で国歌とされたことを認めました。この大日本帝国憲法こそ、戦後、主権在民の原則に反するものとして廃棄されたのであります。現憲法のもとで「君が代」を復活させようとする企てに、道理がないことは明りょうではありませんか。
今回の法制化にあたっての政府見解では、「君が代」の「君」は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である天皇」を指すとされています。「君」につづく「が」は、所有をあらわす格助詞です。それでは「代」とは何か。「代」とは一般的に「時」「時代」を意味します。そうなると、今回の政府見解でも、「君が代」とは「天皇の時代」という意味となり、この歌の全体の意味は、「天皇の時代」が永久につづくことを願うという意味となるではありませんか。こうした歌が、国民主権の原則とどうして両立しうるのか。国民に納得のいくよう、また国語の文法上も説明がつくように答弁していただきたい。
「日の丸」の問題点は、これが日本がアジア諸国にたいする侵略戦争をおこなったときに、その旗印として使われたということにあります。「日本軍、往くところ『日の丸』靡(なび)かせ、『日の丸』翻る」といわれたように、日本軍が占領した土地には、占領の印として「日の丸」が掲げられました。総理は、今回の法制化の動きにたいして、アジア諸国のマスコミから「日本軍国主義の象徴の復活」という強い警戒がよせられていることをどう考えますか。
日本共産党は、「日の丸・君が代」は、いまの日本の国旗・国歌にはふさわしくないと考えます。いま、国民的討論のなかで、「日の丸・君が代」にかわる新しい国旗・国歌を生み出そうというさまざまな提案も出されています。二十一世紀の日本の国旗・国歌には、国民の大多数がこだわりなく歌え、日常生活のなかで親しまれ、アジアの諸国民からも歓迎されるものが、ふさわしいのではないでしょうか。わが党は、二十一世紀の日本にふさわしい新しい国旗・国歌を、国民的討論のなかから、国民の英知を集めて生み出すべきであると考えます。総理の見解を問うものです。
第三は、「日の丸・君が代」を、国民一人ひとりに強制すること、とくに教育現場に強制することについてどう考えるのか、ということです。
政府が今回の法制化にふみだした直接の契機は、広島の県立高校の校長先生が自殺するという痛ましい事件でした。総理は、この悲劇がどうして生まれたと考えていますか。卒業式・入学式に、一律に「国旗掲揚」「国歌斉唱」を義務づけるという形で、「日の丸・君が代」を教育現場に強制してきたことが、その重要な原因であったことを認めますか。こうした悲劇を二度と起こさないためには、教育現場への強制はいっさいやめるということが、唯一の解決法ではありませんか。
総理は、今回の法制化について、「学習指導要領だけでなくて、法制化によって掲揚、斉唱をきちんとすることが望ましい」とのべています。結局、今回の法制化は、教育現場への強制をいっそう強めることを目的としたものですか。そうだとすれば、問題が解決するどころか、悲劇がくりかえされ、矛盾はいっそう広がるだけではありませんか。
一九八九年の学習指導要領の改訂で、「入学式や卒業式などで、国旗掲揚、国歌斉唱の指導をするものとする」とされてから、教育現場への強制は、いっそう激しくなりました。文部省と教育委員会は、校長に職務命令と処分をたてに強制する。校長から同じ強制が教職員におこなわれる。教職員が歌っているかどうかをビデオで調査した学校もあります。「君が代」を歌わない子どもを、校長室によんで叱責(しっせき)した学校もあります。合意なしの強制を毎年繰り返すことによって、校長は教育者としての面目を失い、教員は子どもたちの信頼を失う。それが「個人の尊厳を重んじ」、「個性豊かな文化の創造」をめざす場であるべき教育現場をどんなに荒廃させているか、はかりしれないものがあります。
総理にうかがいますが、サミット七カ国で、このように学校の入学式・卒業式で「国旗掲揚」、「国歌斉唱」を義務づけている国が、日本以外にありますか。いまわが国の教育現場で横行していることは、およそ前近代的な軍国主義時代の野蛮な統制の遺物ではありませんか。
憲法19条が保障する「思想および良心の自由」を侵害するもの
憲法一九条は、思想および良心の自由を保障しています。国家が、国民の内心――ものの考え方を制限したり、介入したりできないというのは、近代国家の共通の基本原則です。アメリカでは、一九四三年に、ある州がその州の法律で、国旗への敬礼を子どもたちに義務づけたことにたいして、連邦最高裁が国民の良心の自由を侵すものだとするきびしい判決をくだし、この精神は今日でも守られています。入学式・卒業式で、「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱を義務づけるということは、憲法で保障された教職員の良心の自由、子どもたちの良心の自由を侵害するものではありませんか。
国民に義務づけることができないものが、どうして教育の場には強制できるのか
総理は、今回の法律について、「国民にたいして国旗の掲揚、国歌の斉唱を義務づけるものではない」としています。しかし、国民に義務づけることができないものが、どうして教育の場教職員と子どもには義務づけることができるのですか。総理が、国民にたいして「義務づけるものではない」としたことは、そうした義務づけが憲法一九条の内心の自由に抵触する恐れがあるからと考えているからではないのですか。そうであるならば、教職員や子どもにも、そうした義務づけはできないのではありませんか。
それを「教育」の名で合理化することはできません。どのような形であれ、思想・良心の自由など、人間の内面の自由に介入できないことは、近代公教育の原理であり、教育基本法の原則ではありませんか。
日本共産党は、法律に根拠がない現状ではもちろん、わが党が主張するように国民的討論と合意をへて法制化がおこなわれたとしても、国旗・国歌は、国が公的な場で公式に用いるということに限られるべきであって、国民一人ひとりにも、教育の場にも強制すべきものではないと考えます。総理の見解を問うものです。
強行は歴史に汚点――法案は廃案にして、国民的討論を保障せよ
私は、「日の丸・君が代」法案について、三つの角度から、その問題点を究明してきました。いまここで、起こりつつある国民的討論を断ち切って、この法案を強行するならば、日本の歴史に大きな汚点を残し、日本の社会に深刻なひずみをもたらすことになるでしょう。教育現場で起こっている矛盾についても、何も解決しないどころか、いっそうの軋轢(あつれき)と悲劇を生むことになるでしょう。
日本共産党は、この法案を廃案にすることを強く求めます。国民的討論を十分に保障し、国民的合意によって、日本にふさわしい国旗・国歌をきめていくことこそ、政治の責務であることを重ねて強調して、質問を終わります。
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小渕恵三首相の答弁(要旨)は次のとおり。
・ (国民的討論について)今回の国旗と国歌の法制化は、「日の丸」と「君が代」が長年の慣行により、国旗と国歌として国民の間に広く定着いたしていることをふまえ、二十一世紀を迎えることを一つの契機として、成文法に、その根拠を明確に規定することは必要であるとの認識のもとで、法制化をはかるものとしたものだ。政府としては、このような国民の意識もふまえ、法律案を国会に提出させたものであり、国権の最高機関でご審議のうえ、決していただくべき事柄であると考えている。
・ (「日の丸・君が代」にたいする抵抗感の根拠)国民の一部に「日の丸・君が代」にたいして、指摘のような意見のあることは承知いたしているが、国民の多くの方々のあいだに「日の丸・君が代」はわが国の国旗と国歌としてふさわしいという認識が定着しており、そのことは総理府の世論調査や最近の報道各社の世論調査の結果からも裏付けられているところだ。
・ (「君が代」の歌詞と主権在民の原則との関係)「代」とは本来、時間的概念を表すものだが、転じて国を表す意味もあると理解している。また日本国憲法下で「君が代」とは、日本国民の総意にもとづき、天皇を日本国および日本国民統合の象徴とするわが国のことであり、「君が代」の歌詞もそうしたわが国の末永い繁栄を祈念したものと解することが適当であると考えている。したがって日本国憲法の主権在民の精神にいささかも反するものではない。
・ (法制化にたいするアジア諸国の受けとめ方)アジア諸国の政府よりなんらの懸念の表明があったとはきいておりません。
・ (新しい国旗・国歌の制定について)「日の丸」と「君が代」は長年の慣行によりそれぞれ国旗と国歌として国民のあいだに広く定着していると考えております。
・ (校長自殺の原因、教育現場での取り扱い)広島県立世羅高校の石川校長がみずから命を絶たれたことは誠に痛ましいことと考えている。国旗・国歌の問題をめぐり、教職員間で種々の議論があり、孤立感を抱いておられたと承知している。子どもたちが国際社会において、尊敬され、信頼される日本人として成長するためには、日本国民としての基本的マナーとして、わが国の国旗・国歌はもとより諸外国の国旗・国歌にたいする正しい認識と、それらを尊重する態度を育てることがきわめて重要。国旗・国歌についてこのような観点にたって、指導をおこなっているものであり、ぜひ関係者においてはこの趣旨を理解してほしい。
・ 国旗・国歌の法制化と、学校における国旗および国歌の指導との関係)学校における国旗と国歌の指導は、児童生徒が国旗・国歌の意義を理解し、それを尊重する態度を育てるとともに、すべての国の国旗と国歌にたいして等しく敬意を表する態度を育てるためにおこなっているものであり、今回の法制化にともない、その方針に変更が生じるものでない。
・ (サミット七カ国の国旗・国歌の取り扱いについて)政府でおこなった調査によれば、入学式や卒業式自体を持たないなどという国もあり、その扱いもさまざまであり、アメリカ合衆国では連邦法により国旗は授業日にはすべての学校の校舎等に掲揚されなければならないと規定していると承知している。国旗・国歌にたいする正しい認識とそれらを尊重する態度を育てるうえで、入学式等にこれらを指導することは妥当なものであると考える。
・ (良心の自由について)憲法で保障された良心の自由は、一般に内心について国家はそれを制限したり、禁止したりすることは許されないという意味であると理解している。学校で学習指導要領にもとづき、国旗・国歌について、児童生徒を指導すべき責務をおっており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は国民として必要な基礎的基本的な内容を身につけることを目的としておこなわれておるもので、子どもたちの良心の自由を制約しようというものでないと考えている。
・ (教育現場で教職員や子どもへの国旗の掲揚等の義務づけ)国旗・国歌等、学校は指導すべき内容については従来から、学校教育法にもとづく学習指導要領によって定めることとされている。学習指導要領では各教科、道徳、特別活動それぞれにわたり、子どもたちが身につけるべき内容が定められているが、国旗・国歌について子どもたちが正しい認識をもち、尊重する態度を育てることをねらいとして指導することといたしておるものだ。
・ (国旗掲揚等の義務づけをおこなわなかったことについて)今回の国旗および国歌の法制化の趣旨は、日の丸・君が代は長年の慣行によりそれぞれの国の国旗と国歌として定着していることをふまえ、二十一世紀をむかえることを一つの契機として成文法にその根拠を明確に規定することだ。このような法制化の趣旨にかんがみ、法律案は国旗と国歌を規定する簡明なものとした。
・ (教職員や子どもたちにも国旗の掲揚等、義務づけはできないのではないか)国旗・国歌等、学校教育において指導すべき内容は学習指導要領において定めることとされており、各学校はこれにもとづいて、児童生徒を指導すべき責務をおう。
・ (教育基本法の原則について)教育基本法は日本国憲法の精神にのっとり、教育の目的を明示したものであり、学校教育における国旗・国歌の指導は、教育基本法の精神を受けて定められている学習指導要領にもとづき、国民として必要な基礎的基本的な内容を身につけるためおこなわれるものであり、これは児童生徒の思想・良心を制約しようとするものではない。
・ (国旗・国歌の強制について)国旗・国歌の法制化にあたり、国旗の掲揚にかんし、義務づけなどをおこなうことは考えていない。現行の運用に変更が生じることにはならない。