2006年6月8日(木)「しんぶん赤旗」

教育基本法改定のどこが問題か

国民的な反対運動を急速に広げよう

志位委員長の講演(大要)


 日本共産党本部で六日開かれた、教育基本法改悪反対の演説会で、志位和夫委員長がおこなった講演の大要を紹介します。


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(写真)講演する志位和夫委員長

 会場いっぱいに参加されたみなさん、CS通信をご覧の全国のみなさん、こんばんは。お忙しいところ日本共産党の演説会におはこびくださいまして、ありがとうございます。心からのお礼を申し上げます。(拍手)

 きょうの演説会の主題は、教育基本法の改定問題についてであります。私たちは、この問題は、子どもたちの未来、日本の進路にかかわる国民的な大問題だと考えています。政府・与党が、国会に提出し、押し通そうとしている教育基本法の改定案は、どういう問題点をもっているのか。今日の教育をめぐるさまざまな問題を打開するうえで、何がいま求められているのか。きょうは、国会論戦をふまえて、このことをお話ししたいと思います。

 国会は、会期末の六月十八日まであとわずかとなりました。小泉首相が、「会期の延長はしない」と言明するもとで、わが党は、教育基本法改定法案について、他の悪法とともに、あくまでも今国会での廃案をめざして奮闘します。同時に、法案が、つぎの臨時国会に持ち越される可能性が強いことも事実であります。そうなった場合には、秋の臨時国会にむけて、どれだけ多くの国民にことの真相をつたえ、この動きに反対する文字通りの国民的運動、国民的世論をつくれるかどうかが、たいへん重要になってきます。まさにこれからが、たたかいの行方を左右する勝負どころになるということを自覚して、この法案を阻止するために、全力をつくす決意をまず申し上げるものです。(拍手)

一、「なぜ改定か」――政府は説明ができない

 教育基本法は、すべての教育関係の法律の大本にある文字通りの基本法です。「教育の憲法」とよばれ、憲法に準じる重みをもった法律です。そして、今回の政府の改定案は、一部手直しではありません。政府自身が本会議の趣旨説明のなかで、これは「教育基本法の全部を改正」するものだとのべているように、現行基本法を廃止して、文字どおりの新法に置き換える全面改定案であります。

 にもかかわらず、政府からは、「なぜ改定が必要か」についてまともな説明がありません。わが党は国会の質疑のなかで、「現行法にいかなる問題があるのか」「どこが時代の要請にこたえられなくなっているのか」をただしましたが、首相からは具体的な回答はまったくありませんでした。全面改定案を提起しながら、現行基本法の内容について、何一つ問題点をあげられない。ここにまず今回の改定案の大きな自己矛盾があるということを指摘しなければなりません。

 教育基本法改定を推進する自民党の元文科大臣は、特別委員会の質疑のなかで、「いじめ、校内暴力、不登校、学級崩壊、学力低下の問題」、「若者の職業意識の希薄化や青少年による凶悪犯罪の増加」、「拝金主義やルール無視の自己中心主義」などをあげつらい、「現行の教育基本法はもはや時代に適合しきれなくなった」とのべました。しかし、ここにあげられた問題の原因を、教育基本法にもとめることは、まったくの筋違いであります。

 “すべては教育基本法が悪い”――こうした改定論者たちの言い分が成り立たないことは、私は、教育基本法の前文と十一条からなる法律そのものを読めば、たちどころに明らかになってくると思います。そこには、今日いよいよみずみずしい生命力をはなつ民主的理念がのべられています。たとえば基本法第一条は、つぎのように、「教育の目的」が、一人ひとりの子どもたちの「人格の完成」をめざす――発達の可能性を最大限に伸ばすことにあるとのべています。

 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」。

 ある地方紙は、社説で、教育の荒廃の原因を基本法と結び付けることを「筋違い」だと退けたうえで、「それは基本法をきちんと読めば分かる」として、基本法第一条を引用し、「教育の使命としてこれ以上のものがどこにあるというのだろう」とのべました。そして、こう結論づけました。「教育をめぐるさまざまな問題は、基本法の施行から五十九年間、目的実現への努力が十分ではなかったために起きているのではないか」。

 私もその通りだと思います。教育と子どもをめぐるさまざまな危機の根源は、教育基本法にあるのでなく、教育基本法の民主的理念をふみにじってきた自民党政治にこそあるのではないか。教育基本法に“濡れ衣(ぬれぎぬ)”をかぶせ、その改変をはかることは、危機をいっそう深刻にするものではないか。

 私たちは、国会論戦をつうじて、このことを究明してきましたが、政府提出の改定案には、憲法に背反する二つの大問題があることが浮き彫りになってきました。

二、「国を愛する態度」など「徳目」の強制――内心の自由を侵害する

「内心に立ち入って強制しない」――現実はどうなっているか

 第一の問題点は、政府の改定案が、新たに第二条として「教育の目標」をつくり、そこに「国を愛する態度」など二十におよぶ「徳目」を列挙し、その「目標の達成」を、国民全体に義務づけているということです。とくに学校と教職員、子どもたちにたいしては、改定案の第六条「学校教育」などで、「学校においては、教育の目標が達成されるよう……体系的な教育が組織的に行われなければならない」と義務づけが具体的に明記されています。

 ここにあげられている「徳目」それ自体には、当たり前のようにみえるものもあります。しかし、あれこれの「徳目」を、法律に「目標」として書き込み、「達成」が義務づけられれば、時の政府の意思によって、特定の価値観を、子どもたちに事実上、強制することになります。これは、憲法一九条が保障した思想・良心・内心の自由を侵害するものではないか。これが私たちが国会で提起した第一の論点でした。

 小泉首相の答弁は、「一つの価値観を強制するために、教育基本法を改正する意思はまったくありません」、「児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではありません」ということを繰り返すというものでした。もとより「内心の自由」は、憲法に保障された絶対的自由であって、政府がこれを正面から否定することはありえないことであります。そこで、私たちは、こうした弁明にたいしては、現実におこなわれている事態にてらして、政府の立場をただすことが、何より大切になってくると思います。

「愛国心通知表」――「難しい」というなら法案の道理がたたなくなる

 私が、特別委員会で提起した一つの問題は、ここに持ってまいりましたが、二〇〇二年度に福岡市の小学校六年生で使われた通知表です。この通知表では、社会科の評価の筆頭に、「我が国の歴史や伝統を大切にし国を愛する心情をもつとともに、平和を願う世界の中の日本人としての自覚をもとうとする」とあります。すなわち、「愛国心」が評価の対象とされ、三段階で成績がつけられていました。最後のページを見ますと、「A 十分に満足できる」「B おおむね満足できる」「C 努力を要する」とあります。

 この通知表を押しつけられた教育現場でおこった矛盾は深刻でした。ある民放テレビも特集番組を放映しました。そのなかで、多くの教師が、「評価しようがない」、「無理に評価しようとすれば裏表のある人間をつくってしまう」と悩みを語りました。保護者からは、「あなたの愛国心はA級ですよ、B級ですよ、C級ですよとランク付けされ、A級日本人になるように家で教育しなさいといわれているようだ」との強い批判がよせられました。実際、この通知表で「C」と評価された子どもは、「努力を要する」というが、いったいどんな「努力」をしたらいいのか。私は、首相に通知表の写しを手渡して、「こんなやり方は、間違いだ。やってはならないことだ」とただしました。

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(写真)福岡市内のある小学校で使われた6年生の通知表(2002年度) では、社会科で「愛国 心」をABC3段階 で評価していた

 首相は、通知表を手にとって評価項目を自分で読み上げたうえで、「率直にいって評価するのは難しい」と言いました。「こういう項目はもたなくてよい」とも言いました。この答弁は、人間の常識を語ったと私は思います。「難しい」というのは当たり前のことです。翌々日の質疑で、文科相は、「ABCをつけるなんてとんでもない」とまでのべました。これは重大な答弁であります。

 これは、全国に波紋をよび、「愛国心通知表」が全国各地で使われているということが明らかになりました。埼玉、岩手、茨城、千葉、愛知、滋賀、長崎などの県でも、使われていた事実がつぎつぎに明らかになりました。さらに、埼玉県騎西町、岩手県大船渡市、茨城県牛久市、千葉県茂原市、長崎県諫早市などでは、見直そうという動きが広がっています。さすがに「愛国心」にABCをつけることは、政府も合理化できなかった。これは重要な成果と言ってよいと思います(拍手)。首相答弁を足がかりにして、あらためさせていく運動が大切であります。

 同時に、この問題で重要なことは、「愛国心通知表」は、各地の学校や教育委員会の自主的判断でおこなわれたものではないということです。二〇〇二年度以降の学習指導要領で、小学校六年生の社会科の「目標」として、「国を愛する心情を育てるようにする」などが明記されたことがことの根本にあります。つまり政府の号令でおこったことなのです。号令をかけた張本人が文科大臣です。その人が「とんでもない」ということは、とんでもないことであります(笑い)。首相が、「評価は難しい」「こういう項目はもたなくてよい」と言った以上、学習指導要領で「愛国心」をもつことを「目標」にすることも、あらためるべきではないでしょうか。(拍手)

 さらに、今回の政府の改定案に書き込まれた二十におよぶ「徳目」は、学習指導要領に明記されているものを、法律に「格上げ」しようというものなのです。しかし、首相が、「評価は難しい」としているものを、法律に「格上げ」することは、道理がたたないではありませんか。「愛国心通知表」をきっかけに、改定案は重大な破たんにおちいったのであります。

 この矛盾に目をつぶって、改定案を強行したらどうなるか。学習指導要領に明記されただけで、全国各地で「愛国心通知表」が横行しました。それが基本法に明記されれば、全国の学校で子どもたちの「愛国心」がABCで「評価」されることになりかねません。「評価」されれば、「成績」という圧力で、特定の「愛国心」が子どもたちの心に強制されることになります。まさに「内心の自由に立ち入った強制」が教育の現場で横行することになります。私は、首相が「難しい」といった以上、改定案そのものを撤回せよ――このことを強く求めたいと思うのであります。(拍手)

「日の丸・君が代」の強制――こんな無法と不合理を許してはならない          

 もう一つ、いま教育現場で起こっている、絶対に見過ごすことのできない恐るべき問題を告発したいと思います。それは東京都で石原都政のもとで起こっている事態であります。

 「児童生徒の内心にまで立ち入って強制しない」ということは、一九九九年に「日の丸・君が代」を法制化したさいにも、政府が繰り返し答弁したことでした。当時の野中官房長官は、学校現場での取り扱いについても、「人それぞれの考え方がある」として、「式典等において、起立する自由もあれば起立しない自由もあるし、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もある」と、国会答弁で明言していました。

 ところが東京都では、この間、卒業式や入学式で「日の丸・君が代」の常軌を逸した強制がおこなわれ、「君が代」斉唱にさいして従わない教職員――起立しないという立場をとった教職員を、毎年のように処分しています。

 強制のほこ先は教職員にとどまりません。生徒で不起立者が多かった学校に対しては、教員が「指導不足」として結果責任をとらされ、「注意」「厳重注意」など事実上の処分がなされています。

 これは、ある都立高校の校長あてに、都教育委員会から出された「注意」であります。つぎのようにのべています。「卒業式における国歌斉唱時に、結果としてほとんどの生徒が不起立であったことは、学習指導要領に基づき卒業式を適正に実施する立場にある校長として、教職員に対し十分指導したとは言い難い。今後、このような指導がないよう注意する」。

 「君が代」が、日本の国歌にふさわしいかどうかについては、教職員はもちろん、生徒のなかにもさまざまな意見があります。歌いたい生徒もいれば、歌いたくない生徒もいます。しかし、自分の大好きな先生が処分を受けるということになったらどうなるか。やむなく起立し、歌うことにならざるをえないでしょう。これが「生徒の内心にまで立ち入った強制」でなくて何なのか。高校生を、自主的な判断力をもった独立した人格としてみとめない。教師をいわば「人質」にとった形で斉唱を強制する。これは直接「立て」と命令するより、さらに卑劣なやり方ではないでしょうか。

 もう一つ、これは、ある都立高校の教諭あての「厳重注意」であります。この先生が「ホームルームで生徒に対し、卒業式における国歌斉唱時に内心の自由があるので起立して歌わなくてもよいという趣旨の発言をした」ということを問題にし、「今後、このようなことがないよう厳重に注意する」とあります。これも異常きわまりないことです。「内心の自由があるので起立して歌わなくてもよい」ということは、内閣官房長官が、政府の公式の見解として国会で答弁したことではありませんか。政府の見解を、そのまま生徒に伝えたら、教師が「厳重注意」とされるとはどういうことか。こんな理不尽なことはありません。

 こうした無法が東京都でまかりとおっているのに、政府・文科省は「適切な判断」と都の教育委員会を擁護しています。これではいくら政府が、「児童生徒の内心に立ち入った強制はしない」といったところで、空語に等しいではありませんか。教育基本法が改定されれば、東京都でおこなわれている無法が、全国に広がることが強く懸念されるのであります。

 私は、学校という場所は、子どもたちからみて「不合理」なこと、「問答無用」のことが、本来は、一つでもあってはならない場所だと思います。「一事が万事」という言葉がありますが、一つでもあれば、子どもたちは敏感にそれを感じとります。信頼が損なわれることにもなりかねません。「日の丸・君が代」強制にさいして、多くの教師たちが、「三年間かかってえた信頼が、四十秒で壊されるのではないか」と苦しんでいるのは、本当に胸が痛みます。処分で脅迫され無理やり歌わされる教師。教師を「人質」にとって子どもたちに斉唱を強要する学校。この現実がどれだけ子どもたちの心を傷つけ、教育への信頼を失墜させているかは、はかりしれないものがあります。「日の丸・君が代」の無法な強制は、ただちにやめるべきだということを、私は、強く要求するものであります。(拍手)

市民道徳、国家と内心、政治の役割――日本共産党はこう考える

 日本共産党は、一九七〇年代、八〇年代から、教育の場で、学力、体育、情操とともに、民主的な市民道徳を培うことが重要だと主張してきました。一九九七年の第二十一回党大会では、市民道徳の内容として十項目の内容を提起し、その一つとして、諸国民友好の精神にたった愛国心を培うこともあげています。私たちは、これらは憲法と教育基本法の民主的原則からおのずと導きだされる内容だと考えています。

 同時に、わが党は、民主的な市民道徳は、法律によって義務づけられ強制されるべきものではないと主張しています。何を市民道徳の基準にするかは、国家が上から押しつけるのでなく、国民的な討論と合意によって形成されていくべきものであります。そして市民道徳は、一人ひとりの子どもたちの「人格の完成」をめざす、教育の自由で自主的な営みを通じて培われるべきものであります。

 人間の心――内心は、法律で強制してはなりません。それは法律の限界をこえた、不可侵の領域にあるものです。それが思想・良心・内心の自由を保障した憲法一九条の意味することであります。わけても何を愛するかは、個人の精神の最も自由な領域に属するものであって、国家が強制すべきものではありません。この自由を侵害する政府の改定案は、憲法一九条に背反するまぎれもない違憲立法だといわなければなりません。(拍手)

 政治がなすべきは、絶対に介入することが許されない子どもたちの内心という領域に押し入って、「愛国心」を強要することではありません。どの子どもたちにも、愛するに足ると実感できる国をつくるために、主権者である国民の利益をまもるという政治本来の領域で力をつくすことこそ、政治の責任だということを、私は強調したいと思うのであります。(拍手)

三、教育内容への国家介入の歯止めなし――教育の自由が根底からくつがえされる

教育基本法一〇条――戦争教育の痛恨の反省のうえに刻まれた条文 

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(写真)教育基本法改悪法案について質問する志位和 夫委員長=5月24日、衆院教育基本法特別委

 第二の問題点は、政府の改定案は、国家権力が教育内容と方法に、無制限に介入できるものとなっていることです。

 現行教育基本法は、すでにみてきたように第一条で「教育の目的」を「人格の完成」――一人ひとりの子どもの発達の可能性を最大限に伸ばすことにおいていますが、この目的を実現する保障となる条項が、つぎの第一〇条であります。

 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」。

 ここでいう「不当な支配」とは、主として国家権力のことであります。「教育勅語」を中心とした戦前の教育が、国家権力の完全な支配・統制のもとにおかれ、それがやがて軍国主義一色に染め上げられていった歴史の反省にたって、教育にたいする国家権力による「不当な支配」は許されないことを明記したのであります。

 この国家権力による「不当な支配」を排除する保障となっているのが、後段の「国民全体に対し直接に責任を負って」という規定です。この「直接に責任」というところが大切なところであります。つまり、教育は、子どもの内面的価値に深くかかわる営みだけに、教育者は、政府や行政機関をつうじて国民に「間接的に責任」を負うのではなくて、子どもの学習する権利にこたえて、子ども、父母、国民に、「直接に責任」を負って、教育に携わるものの良心と自主性にもとづいて、教育をおこなわなければならないということであります。それは、教師は、「政府がいったから、それに従ったまでだ」ということでは、人間としての責任を回避できないということでもあると思います。この規定は、現行基本法の第六条の「学校の教員は、全体の奉仕者」として、国民全体に責任を負って教育に携わるべきだとする規定と一体のものであります。

 ここでいう「直接に責任を負って」ということも、戦前の教育の痛苦の反省にもとづいています。かつて多くの教師が、「戦争に行け」と教え子たちに説きました。戦後、痛恨の思いでわびた教師がたくさんいます。つぎに紹介するのは、「戦死せる教え児よ」という、高知県で教員をつとめ、戦後、民主的教職員組合の運動に携わった竹本源治さんの詩であります。

 「逝いて還(かえ)らぬ教え児よ

私の手は血まみれだ!

君を縊(くび)ったその綱の

端を私も持っていた

しかも人の子の師の名において

嗚呼(ああ)!

『お互いにだまされていた』の言訳が

なんでできよう

慚愧(ざんき) 悔恨 懺悔(ざんげ)を重ねても

それがなんの償いになろう

逝った君はもう還らない

今ぞ私は汚濁の手をすすぎ

涙をはらって君の墓標に誓う

『繰り返さぬぞ絶対に!』」。

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(写真)高知市の城西公園に建つ竹本源治さんの「戦死せる教え児よ」の詩碑

 戦後、民主的教職員組合運動の草創期をになった先達が残した、胸を打つ詩であります。「天皇がいったから」「国がいったから」では、教師としての責任を回避できない。教育とは、人間と人間とのやり直しのきかない営みであり、だから子どもたちに、父母に、国民に、「直接に責任」を負っておこなわれなければならない。教育基本法一〇条というのは、幾多の人々の犠牲の上に、そして戦争教育の痛恨の反省のうえに、刻まれた条文であるということを、私たちは、忘れてはならないと思います。(拍手)

 こうして教育基本法一〇条は、教育内容にたいする国家的介入を抑制し、教育の自主性、自律性、自由を保障する最大のよりどころであり、教育基本法全体の「命」ともいえる重要な条文となっていることを、私は強調したいのであります。(拍手)

政府の裁量行政による国家的介入を、無制限に拡大し、合法化する 

 政府の改定案は、この「命」ともいえる第一〇条を、ずたずたに改変してしまっています。「国民全体に対し直接に責任を負って」を削除して、「この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきもの」に置き換えています。第六条の「全体の奉仕者」という規定も削っています。さらに政府が、「教育振興基本計画」をつくり、教育内容について詳細に決め、実施することができるとしています。

 これでは、国家権力が、教育内容と方法に対して、無制限に介入できることになるのではないか。いったい、こんなことが日本国憲法と両立しうるのか。私たちが国会で提起した第二の論点は、ここにありました。

 政府は、教育基本法の一〇条改定をすすめるうえで、一九七六年の最高裁大法廷における学力テスト問題の判決をもちだして、「最高裁判決の趣旨を踏まえ」て、一〇条改定をおこなうということを、繰り返し国会答弁で強調しました。

 この最高裁判決には、私たちが肯定できない弱点も含まれていますが、政府の改定案はこの判決に照らしても説明のつかないものになっているのではないか。政府はこれを根拠にするわけですが、根拠になりえないのではないか。私は、五月二十六日の特別委員会の質疑で、この問題をただしました。この質疑をつうじて、二つの大問題が浮き彫りになりました。

 第一は、一〇条改定の目的がどこにあるかという問題です。私が、政府に、それをただしたところ、文科大臣は、「最高裁判決の趣旨を踏まえ」、「法律の定めるところによりおこなわれる教育が、不当な支配に服するものではないことを明確にした」ことに、一〇条改定の目的があると答弁しました。文科省の説明では、「法律の定めるところにより」とは、政省令による政府・文科省の裁量行政も含まれるとのことです。それでは、最高裁判決は、政府・文科省のおこなう裁量行政は、すべて「不当な支配」にあたらないなどということをいっているのでしょうか。

 最高裁判決では、教育行政機関のどういう行為が、現行基本法の一〇条がいう「不当な支配」にあたるかについて、二つのケースをはっきりと区別して論じています。

 ――第一のケース。最高裁判決では、法律にはっきり明記されたこと、行政の裁量の余地のないことを、そのまま執行する行為は、「不当な支配」にあたらないとされています。たとえば「義務教育は九年」「公立の義務教育学校の授業料はとらない」などは、現行教育基本法に明記されていることですが、それをそのまま執行する行為は、「不当な支配」にはあたらないとされています。

 ――第二のケース。同時に、最高裁判決では、たとえ法令に基づくものであっても、行政の裁量でおこなわれる行為は、「不当な支配」にあたることがあるということをのべています。たとえば、学習指導要領というのがありますでしょう。あれは法律のどこにも出てこないものです。どこにも学習指導要領という規定はありません。文科省が、まったく行政の裁量でおこなっている行為であります。こういう行為は、「不当な支配」にあたることがありうるということが、最高裁判決でのべられています。

 このように最高裁判決は、第二のケース――行政の裁量でおこなわれる行為が、「不当な支配」にあたりうることがあるということを明確に断じているのです。そのことが、政府・文科省にとっては、耐え難い手かせ・足かせになっている。この手かせ・足かせをはずすには、一〇条を変えるしかない。一〇条を変えて、政府のいう「法律の定めるところにより行われる教育」――行政の裁量でおこなわれる行為まで、すべて「不当な支配」にあたらないものとしてしまおう。ここに一〇条改定の目的があるのであります。

 学習指導要領、全国一斉学力テスト、教科書検定、「日の丸・君が代」強制――これまで政府・文部省が、行政の裁量としておこなってきた問題は、つねにそれが教育基本法一〇条にいう「不当な支配」にあたるかどうかが争われてきました。だから一〇条を変えて、今後は、そういう争いが起こらないようにする。政府・文科省がどんな裁量行政をやっても、「不当な支配」にはならない――天下御免にするというのであります。政府・文科省の裁量行政による教育内容への国家的介入を、無制限に拡大し、合法化する――ここに一〇条改悪の恐るべき狙いがあるということが、論戦をつうじて浮き彫りになりました。

 こうした法改定を、「最高裁判決の趣旨を踏まえ」というのは、国民を欺く厚顔無恥なやり方というほかありません。最高裁判決ではめられた手かせ・足かせをはずすために、一〇条を変えようというのですから、それは「趣旨を踏まえ」るものどころか、「趣旨を覆す」ものではないか。私は、特別委員会の質疑のなかで、政府の改定案は、「『最高裁判決の趣旨をふまえる』といいながら、その内容を百八十度ねじまげた、改ざんしたものだ」と批判しましたが、文科大臣からの反論はありませんでした。この批判は正当なものだったと確信するものであります。(拍手)

国家と教育――教育内容への国家的介入の抑制条項がない 

 しかし、第二に、重大なことは、この最高裁判決では、このような立法は、憲法にてらして許されないということをのべているのであります。一〇条を変えてその束縛から逃れられたとしても、憲法の束縛からは逃れられないのであります。

 最高裁判決では、憲法二六条を子どもの学習する権利を保障する条文だととらえたうえで、日本国憲法のもとでの国家と教育の関係について論じ、政治は「政党政治のもとで多数決原理で決まる」ものだけれども、教育というのは「人間の内面的価値に関する文化的営み」だ、つまり、政治と教育は違う原理をもっている、したがって「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的でなければならない」ということを、憲法の要請としてはっきり明記しているのであります。

 私は、この一節を国会で引いて、文科大臣にたずねました。政府の改定案の一体どこに、「国家的介入を抑制」する条項があるのですか。あるのだったら具体的に条項を示して答えてください。こうただしました。文科相の答弁は迷走し、右往左往したあげく、最後にいったのは、「(政府案には)『不当な支配に服することなく』と書いてあり、これが抑制する条項です」という答弁をしました。これは論理破たんそのものです。政府・文科省のおこなう裁量行政はすべて「不当な支配」にあたらないと自分でいっておきながら、それを「抑制」するのは「不当な支配に服さず」という条項だというのは、完全な論理破たんです。こうして政府は、答弁不能におちいりました。

 「国家的介入を抑制」する条項を、政府は一つもあげられませんでした。一〇条を破壊してしまった結果、政府案のどこにも「国家的介入を抑制」する条項がなくなってしまった――このことが質疑を通じて明らかになりました。すなわち政府の改定案は、法律そのものの構造でも、教育内容に対する国家的介入がそれこそ無制限にできる国家統制法になっているのであります。

 民主党が提案した「日本国教育基本法案」も、前文に「日本を愛する心を涵養(かんよう)」することを盛り込むとともに、現行基本法一〇条を完全に削除し、政府が「教育振興基本計画」を決めるなど、教育内容に対する国家的介入を無制限にする点では、政府案とうり二つです。特別委員会の質疑を聞きますと、自民・公明、民主の双方とも、教育への国家的介入を抑制するという見識もなければ自覚もない。それらは片りんもみられません。好き放題に政治的介入の議論をしている。これは、およそ教育を語るイロハの資格を欠くものといわざるをえないのであります。(拍手)

 教育基本法が五十九年前に制定されたときに、立法に携わった人々は、教育に対する国家の関与は、最大限抑制されなければならないことを、深く自覚していました。立法時の文部大臣で、後に最高裁長官をつとめた田中耕太郎氏は、一九五二年の『ジュリスト』創刊号によせた論文「教育基本法第一条の性格」で、「国家的立法を以って教育の目的に関する指針を示すことが適当か」という問いを正面からたてています。そして、そこには最大限の自制と抑制が必要だという趣旨のことをのべています。田中氏は、教育基本法第一条の「教育の目的」に、「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し」など、一連の価値観が入っていることについて、これは戦前の「教育勅語」にかわって新しい民主的価値観が求められたという歴史的事情のもとで、新憲法にもとづく普遍的な原理・原則を最小限にしぼってのべたものだということを強調しています。そして、「教育の目的」に、これ以上の内容をつけくわえるようなことは、決してしてはならないということを言っています。この論文は、立法当事者が、国家による教育への関与の抑制という問題を、ここまで真剣に考えていたのかということを今日に伝えるものとして、たいへん印象深いものがあります。

 「人間の内面的価値に関する文化的営み」である教育においては、その自主性、自律性、自由が尊重、保障されなければなりません。そのことは、憲法一三条が保障した国民の幸福追求権、憲法一九条が保障した思想・良心・内心の自由、憲法二三条が保障した学問の自由、憲法二六条が保障した教育への権利などが強く求めていることであります。最高裁判決が、「教育内容に対する国家的介入はできるだけ抑制的でなければならない」とのべたのは、まさにこの憲法の原理をふまえたものにほかなりません。

 「国家的介入への抑制」を欠き、教育への権力介入・統制・支配を無制限にする、政府の改定案は、憲法にまっこうから反するものであります(拍手)。自由な空間でこそ教育は輝きます。その自由を根底から覆す暴挙を許してはならないということを、私は、心から訴えたいのであります。(拍手)

教育基本法と政府改定案との違い
現行法
改悪案
教育の目的
 第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育の方針
 第2条
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

教育の目的
 第1条
 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育の目標
 第2条
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
 (1)幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
 (2)個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
 (3)正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
 (4)生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
 (5)伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

教育行政
 第10条
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
 2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
教育行政
 第16条
 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
 2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
 3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。

4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

教育振興基本計画
 第17条
 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。(第2項は略)

四、競争においたて「勝ち組」「負け組」にふりわける――こんな教育は許されない

一斉テスト押しつけと、学区制廃止で、学校はどうなっているか

 それでは、一〇条改定で、教育への国家的介入の歯止めをなくしたうえで、どういう教育を強制しようというのでしょうか。それは、「国を愛する態度」などの「徳目」の押しつけだけではありません。子どもたちを競争においたて、「勝ち組」「負け組」にふりわける――これがいっそうひどい形ですすめられようとしています。

 教育基本法改定を答申した中央教育審議会が作成した「教育振興基本計画」の「参考例」というのがあります。それを見ますと、その筆頭に「全国一斉学力テストを実施する」と書いてあります。この提起はすでに具体化がすすみ、来年度、全国すべての小学校六年生、中学校三年生を対象に、国語、算数・数学の一斉テストが実施されようとしています。

 全国一斉学力テストというのは、かつて一九六一年から六四年にかけて実施され、「競争教育をひどくする」「学校の序列化がすすむ」などの多くの害悪が噴き出し、国民の反対が広がり、中止になっていたものですが、これを四十年ぶりに復活させようというのであります。

 一斉学力テストというやり方が何をもたらすか。その害悪は、この間、全国いくつかの自治体で独自におこなわれている一斉テストの実態を見れば明らかです。たとえば東京都では都独自の一斉学力テストをおこない、市区ごとに詳細な結果を公表しています。さらに区や市で独自の一斉学力テストがおこなわれ、少なくない区や市ではその結果を学校ごとに順位をつけて公表しています。ホームページで、すべての学校別に、教科ごとの成績を公表している自治体もあります。いったい、第一位は○○小学校、第二位は○○小学校と、成績を公表し、序列をつける必要がどこにあるというのでしょうか。競争においたてるためであります。一斉テストとその公表は、学校と教師、子どもたちにとって激しい圧力になって作用しています。一斉テストの前には、「成績が悪い」とされた学校では、テスト対策の特別の授業がおこなわれています。夏休みに入っても休みがやってこないという事態もあるといいます。

 東京都では、一斉テストが、学区制廃止・学校選択制とセットで実施されています。その結果どういうことが起こっているか。「成績上位校」といわれる学校には、新入生が集中します。逆に、新入生ゼロの学校が生まれています。都の教育委員会の調査によれば、荒川、文京、墨田の小中学校で、新入生ゼロの学校が生まれています。新入生が入ってもわずか数人で、学校が統廃合の危機にさらされているところも少なくありません。これは日本の過疎地でだんだん全体の人口が少なくなって、新入生がなくなったという話ではないのです。大都会のど真ん中で、春になっても新入生が入ってこない、入学式がないのです。となりの学校ではいっぱいなのに、こちらの学校では入ってこない。これが、こうした学校で学ぶ子どもたちの心に、どんな深刻な傷をあたえているかは、考えただけでも胸が痛むことではないでしょうか。

 こうした一斉学力テストを、来年度には、全国の小中学生を対象におこなおうというのです。すべての学校と子どもに成績順の全国順位をつけようというのです。これは競争と選別の教育を恐ろしい勢いで加速させるものになるでしょう。もともとこの全国一斉学力テストの計画は、中山前文科大臣が提案したものでしたが、そのさいに中山氏がいったのは「もっと競争原理を導入する」「競争意識を涵養する」というものでした。

 私たちは、もちろん子どもの試験一般に反対するものではありません。試験をおこなうことは、それが適切におこなわれるならば、教師にとっては自らの教育がどれだけ子どもたちに届いているかの自己反省の機会となるでしょうし、子どもたちにとっては自分の理解がどこまですすんだかを知る機会になり、励みにもなるでしょう。また、子どもたちの学力の到達度を全国的に調査するためのテストもありうることですが、その場合にはせいぜい数%の抽出調査で十分でしょう。

 問題は、全国一斉にすべての子どもを対象にしたテストをおこなうことにあります。そんなテストがどうして必要でしょうか。有害なだけであることは、事実が証明しています。子どもたちを競争においたてる一斉テストの押しつけには、私たちは反対であります。(拍手)

 私は、子どもたちを競争においたてることで、本当の学力は育たないと思います。子どもたちに物事がわかることの喜びを伝え、事物そのものへの探究心を育てる仕事が教育ではないでしょうか。そのなかからこそ本当の学力が育っていくのではないでしょうか。(拍手)

習熟度別指導の画一的押しつけをやめ、少人数学級にふみだせ  

 ここで重要なのは、なぜ子どもたちを競争においたてるのかという問題であります。一斉テストの“大義名分”を見ますと、どれもこれもみんな「学力向上のため」を看板に掲げています。しかし子どもたちを競争においたてるのは、子どもたちみんなに学力をつけるためではありません。そこに目的があるのでは、決してないということを、私たちはしっかり見抜く必要があります。子どもたちに競争によって序列をつけ、いわゆる「できる子」と「できない子」というふるいわけをする――ここに子どもたちを競争においたてる真の目的があります。

 中教審が作成した「教育振興基本計画」の「参考例」で、「全国一斉学力テスト」のつぎに並んでいるのが「習熟度別指導」であります。すでに習熟度別指導は、政府の旗ふりのもとでかなりの学校に広がっていますが、これを一気に上から押しつけようというのであります。

 私は、教育現場の自主的判断でさまざまな形態の授業をすることはありうることだと思います。しかし行政が上から、財政的誘導まで使って、習熟度別指導を画一的に押しつけることは、やってはならないことであります。

 小学校の早い段階から、習熟度別が固定化され、いわゆる「できる子」「できない子」というレッテルが張られることは、子どもたちにとって大きな傷になります。学力を引き上げるうえでも、習熟度別は効果がないことは、明らかになっています。ある現場の教員は、習熟度別授業について分析した著書のなかで、保護者から出されたつぎのような「つぶやき」を聞いて、「胸が締め付けられる思いだった」とのべています。

 「先日小学校の息子の公開授業を見ました。こだまクラス三十人、かがやきクラス三十人、がんばりクラス十人と習熟度別でした。こだまクラスは明るい。子どもたちは楽しそうに問題づくりをしていました。かがやきクラスは割合の応用問題をやっていました。子どもたちは、ちらちらと他のクラスを見ていて親も複雑でした。がんばりクラスは親が二人参観していました。ここだけ電気の数が少ないのかなと感じるほど暗い雰囲気でした。このような子どもの暗さを生む授業はやってはいけないと思いました」。

 政府が旗を振っている習熟度別指導というのは、どの子も同じ目標をめざして、理解のゆっくりの子どもには手厚くというものではありません。二〇〇三年度以降の学習指導要領では、いわゆる「できる子」と「できない子」では、学習の目標と内容が違ってもよいとされるようになりました。教科書もそういう二重基準でつくられるようになりました。このもとで少なくない教育現場では、「到達目標別授業」がおこなわれています。たとえば都内のある中学校では、数学を三つのコースにわけ、「Aコース」では「基礎的な問題が解ける」、「Bコース」では「教科書程度の問題が解ける」、「Cコース」では「複雑で難しい問題も解ける」ことが「目標」とされています。つまり、どの子も同じ山に登ることが目標ではないのです。「できる子」は高い山。「できない子」は低い山。はじめから違う山に登ることが目標とされているのです。これは、すべての子どもたちがひとしく学習する権利を保障した憲法に反するやり方ではないでしょうか。

 政府・文科省の調査でも、習熟度別指導など学級定員を減らさない「少人数指導」と比べて、「少人数学級」の方が効果的だと、圧倒的多数の学校が答えています。習熟度別指導の画一的押しつけをやめ、少人数学級を――多くの父母、教師のこの願いにこそ、政府はこたえるべきであります。(拍手)

ふるいわけ教育の根源にある思想を批判する

 私は、競争の真の目的はふるいわけだと申しましたが、そのふるいわけ教育の根源にある思想は、恐ろしいものであります。

 今回の教育基本法改定の直接の出発点となったのは、首相の諮問機関である「教育改革国民会議」が二〇〇〇年十二月に発表した「教育を変える十七の提案」という文書です。これを読みますと、「これからの教育を考える視点」として、こういうことがのべられています。「初等教育から高等教育を通じて、……社会が求めるリーダーを育てるとともに、リーダーを認め、支える社会を実現しなければならない」。つまり、小学校段階から、「リーダー」になるべき子どもと、その「リーダー」に従い支える子どもに区別して教育するというのです。ここには子ども一人ひとりの学習権を保障した憲法の立場とはおよそ無縁の、そら恐ろしい差別・選別の思想があらわれているではありませんか。

 私は、特別委員会での小泉首相にたいする質疑で、子どもたちを競争においたて、序列をつけ、「勝ち組」「負け組」にふるいわける――こんなことが教育として好ましいと思うか、それともただすべき大問題がここにあると考えるかとただしました。

 しかし首相の答弁は、ひどいものでした。「学力テストのどこが悪いか」というものでした。首相の言葉からは、競争や序列化、ふるいわけによって、子どもたちがどんな傷を受けているか、それへの痛みも、自覚も、反省も、まったく感じることができませんでした。格差社会をつくりだした弱肉強食の競争原理を、そのまま教育にも持ち込もうということが、首相の「教育観」であるということが明らかになった答弁でありました。こうした見識しか持ち合わせていない勢力が、子どもたちの未来を閉ざす教育基本法改悪をすすめることを、私たちは絶対に許すわけにはいきません。(拍手)

五、「海外で戦争をする国」「弱肉強食の経済社会」――二つの国策に従う人間づくり

憲法九条改定と教育基本法改定は一体のもの

写真

(写真)志位和夫委員長の講演に耳を傾ける人たち絞6日、党本部

 政府の改定案の問題点を憲法にてらしてみてきましたが、結局のところ、教育基本法を全面的につくりかえる狙いは、どこにあるでしょう。それは、一人ひとりの子どもたちの「人格の完成」をめざす教育から、「国策に従う人間」をつくる教育へと、教育の根本目的を百八十度転換させることにあります。

 第一の狙いは、憲法を変えて「海外で戦争をする国」をつくる、そうした国に従う人間を育てるということであります。

 憲法改定と、教育基本法改定が一体のものであるということは、この動きが起こった出発点からのものであります。一九五三年に、当時の池田自由党政調会長とロバートソン米国務次官補による会談がおこなわれ、「覚書」がかわされました。この「覚書」では、日本が再軍備をすすめる障害として、憲法上の障害――憲法第九条とともに、平和教育の障害があるとしてつぎのようにのべています。

 「占領八年にわたって、日本人はいかなることが起こっても武器をとるべきではないとの教育を最も強く受けたのは、防衛の任に先ずつかなければならない青少年であった」。「日本政府は教育および広報によって日本に愛国心と自衛のための自発的精神が成長するような空気を助長することに第一の責任をもつものである」。「憲法改正および国論という問題は、日本の政府および国民が、自己のやり方で処理しなければならない」。

 ここでは、憲法改定問題が、教育基本法改定問題と一体に提起されています。そして憲法を変えようとする勢力のいう「愛国心」なるものは、「若者に銃をとらせる」ためのものだった。この事実を忘れてはなりません。

 この流れは、今日の動きにも直結しています。憲法改悪・教育基本法改悪で最も突出した動きをみせている日本会議という組織があります。この組織は、日本会議国会議員懇談会という自民、民主にまたがる二百人をこえる国会議員集団と一体のものです。日本会議と日本会議国会議員懇談会は、二〇〇二年の設立五周年記念大会で、つぎの四項目の決議をあげています。

 「一、我々は、国会が速やかに憲法改正の発議に踏み切るよう強く働きかける。

 一、我々は、わが国の歴史・伝統を基調とする、教育基本法の全面的改正を求める。

 一、我々は、靖国神社を蔑(ないがし)ろにする国立追悼施設計画を阻止し、首相の靖国神社参拝の定着化を求める。

 一、我々は、崩壊しつつある家族と地域社会の再生をめざし、道徳心涵養の国民運動に取り組む」。

 ここでも憲法改定、教育基本法改定、靖国参拝、そして「道徳心涵養」――「愛国心」の強制という内容が、一体的なものとしてのべられています。

 憲法改定と教育基本法改定が一体のものであるということは、政府の改定案そのものからも明りょうに読み取れます。

 現行教育基本法は、その前文を、たいへん格調高い一文で始めています。日本国憲法の「理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」という一文です。つまり、憲法を決めたけれども、その憲法の理想を実現するのは主権者である国民です。生きた人間がこれを実現する。それを育てるのが教育だということです。まさに、国民主権の原則に立脚した憲法と教育との関係を、たいへん格調高い一文でつづって、教育基本法の前文は始まっています。ところが、政府の改定案は、それを全面的に削除してしまいました。

 さらに政府の改定案は、現行基本法前文にある「真理と平和を希求する人間の育成」という言葉を、「真理と正義を希求し」に置き換え、「平和を希求」という文言を削り取ってしまいました。「希求」――希(ねが)い求める。この言葉は、たいへん胸を打つ言葉であります。「九条の会」にとりくんでいる大江健三郎さんも、この言葉に注目する発言をされています。この言葉は、憲法には一カ所しか出てきません。憲法第九条第一項です。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し…」と、このなかに出てくる言葉です。教育基本法の前文における「真理と平和を希求する人間の育成」とは、憲法九条のこの言葉を受けたものであることは疑いありません。そのなかから「平和を希求」するという言葉を執念深く削りとっているのです。ここに、教育基本法改定勢力の狙いが透けて見えるではありませんか。

 憲法九条を変えて、「海外で戦争をする国」をつくる、その国に忠誠を誓う人間を育てる――ここに教育基本法改悪の狙いがあります。憲法改悪反対のたたかいと、教育基本法改悪反対のたたかいを、それぞれ大きく発展させながら、それを一つの流れに合流させていくことを、私は心からよびかけるものであります。(拍手)

格差社会を支える人間をつくる――二つの恐るべき本音  

 第二は、弱肉強食の経済社会を支え、従う人間をつくるという狙いであります。いま自民党政治は、「構造改革」の名で弱肉強食の経済政策をすすめ、格差社会と貧困の新しい広がりが、深刻な社会問題になっています。この格差社会を支え、格差社会に従う人間をつくりあげる。ここに教育基本法改定のもう一つの狙いがあります。

 今回の教育基本法改定の出発点となった「教育改革国民会議」の「提案」にその思想があらわれていることは、すでに紹介しましたが、それをさらにあけすけにのべた、二人の人物の言葉を紹介したいと思います。

 一人は、元教育課程審議会会長として教育基本法改定を推進した、ある作家のつぎの言葉であります。「できん者はできんままで結構。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養ってもらえばいいんです」。子どもたちを1%の「エリート」と、99%の「その他」に選別して、「エリート」だけを育てればいい、「その他」は「エリート」に従順に従うように「実直な精神」を養ってもらえばいいんですと言うのです。これが二十にのぼる「徳目」を押しつけるということにほかなりません。こんなことを、「教育」の名で強制することは、私は絶対に許されるものではないと思います。

 いま一つは、「教育改革国民会議」で座長をつとめた人物のつぎの言葉であります。「ある種の能力が備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になりますよ」。人間の能力は遺伝で決まる。それなら教育は、必要がなくなるではありませんか。これは、まさしく「教育」を否定する思想であります。子どもたちをふるいわけする思想が、最後はヒトラーばりの優生学にまで行き着いていることに、背筋が寒くなる思いであります。

国民主権の原理が、教育基本法の根底に流れている

 現行教育基本法の第一条は、「教育の目的」を「人格の完成」だとしています。これは、「人格の完成」以外のことを「教育の目的」にしてはならないということであります。たとえばあれこれの「国策」に役立つ人間づくりを「教育の目的」にしてはならないということであります。教育は、ただひたすらに一人ひとりの子どもたちの主権者としての「人格の完成」をめざしておこなわれるべきであって、未来の社会のあり方は、そのような教育によって成長した未来の世代の判断にゆだねよう――こうした国民主権の原理が、現行教育基本法第一条の根底に流れているのです。(拍手)

 「海外で戦争をする国」「弱肉強食の経済社会」づくりという二つの国策に従う人間をつくることを狙いとする政府の改定案は、憲法の平和原則と基本的人権を破壊するだけではありません。それは、国民主権の原理を根本から覆すものであります。みなさん、子どもたちの未来をまもり、日本の未来をひらくために、日本国憲法の進歩的諸原則にしっかりと立脚して、このたくらみを打ち破ろうではありませんか。(拍手)

六、教育基本法を生かした教育改革を――世界の本流にたって

 最後に、世界に目を転じてみたいと思います。世界の流れにてらしてみますと、今回の教育基本法の改定の動きが、いかにそれに逆らうものかが、はっきりみえてきます。私は、世界の動きから注目すべき二つの事実を紹介したいと思います。

国連・子どもの権利委員会からの二度の勧告は何を意味するか 

 一つは、日本の教育が国連からどう評価されているかについてであります。国連・子どもの権利に関する委員会は、日本政府にたいして二度にわたる勧告をおこなっています。そこで繰り返し批判されているのが、異常な競争教育であります。

 一回目の勧告は、一九九八年ですが、そこでは、子どもが「高度に競争的な教育制度のストレス」によって「発達障害にさらされていること」に「懸念」を表明し、「適切な措置」をとることが勧告されています。

 二回目の勧告は、二〇〇四年ですが、そこでは、一九九八年の勧告で「学校制度の過度に競争的な性格」への改善の勧告をしたにもかかわらず、「十分なフォローアップがおこなわれなかった」と、日本政府の怠慢を指摘し、かさねてその改善を求めています。

 国連・子どもの権利委員会から二度にわたって日本の競争教育は異常だ、発達障害を子どもにもたらしているとまできびしく批判されているのであります。

 子どもたちをいっそう過酷な競争においたてる教育基本法の改定は、この国連の勧告にまっこうから反するものであることは明りょうであります。

 同時に、私が注目したのは、国連は、これらの勧告を、子どもの権利条約の一連の条文――第三条、第六条、第一二条、第二九条、第三一条などの条文にもとづいておこなっているということです。そこでは子どもが最善の利益をえる権利をもつこと、子どもが生存し、最大限の発達の権利をもつことなどをふまえて、「教育の目的」についてこのように明記しています。「子どもの人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること」。この立場は、わが国の教育基本法が「教育の目的」は、「人格の完成」にあるとしていることと、まさしく同じ立場ではありませんか。

 戦後まもなく制定された教育基本法が、世界に先駆けて「人格の完成」を「教育の目的」にかかげました。その考え方が、世界人権宣言にもとり入れられました。そして、二十一世紀の世界で、子どもの権利条約などの形で、人類共通の原理として豊かに発展しているのであります。そしてこの人類共通の原理にてらして日本の競争教育がきびしく批判されているのであります。

 私は、日本政府にたいして、教育基本法をもつ国の政府として、そして、子どもの権利条約の締約国として、国連からの批判と勧告を重く受け止めることを、あらためて強く求めたいと思います。(拍手)

フィンランドの教育改革と、日本の教育基本法  

 いま一つは、フィンランドの教育改革です。フィンランドは、国際的な学力調査で、連続的に「世界一」となり、その教育改革が注目されている国です。そこでは、つぎの点が特徴になっているといわれています。

 第一は、競争主義を、教育から一掃したということであります。フィンランドでは、九年間の義務教育のなかでは、他人と比較するためのテストはありません。そもそも他人との競争という考えがなくなっています。学習とは、子どもが自ら知識を求め、探究していくことだととらえられ、それを助けることが教育だとされています。習熟度別学級編成は、一九八五年に完全に廃止されました。それにかわって多様な学力の子どもたちが同じグループで助けあいながら学びあうという教育への改革がおこなわれました。どの子にもわかるまで教える教育、競争ではなくて助けあう教育――この当たり前のことが、高い学力をつくりだしたのです。

 第二は、学校と教師の自由と自律性を尊重しているということです。国による教科書検定は一九九二年に廃止され、教科書は学校と教師が自主的に選ぶことができるということです。教師は、教育の専門家として尊重され、行政の活動は、教師の管理ではなく、教師が発達することを支援することにおかれています。自由な空間のなかでこそ教育は輝くということを、フィンランドの教育改革は教えていると、私は思います。

 第三は、教育条件の整備という本来なすべき分野で、行政がその責任を果たしているということであります。フィンランドでは、少人数学級がすすみ約二十人程度が標準になっているということです。そして、義務教育はもとより、高等学校、職業専門学校、大学まで、すべて無償とされ、教育の機会均等が保障されています。

 これらの改革をすすめるうえで、フィンランドは、教育改革に関する国際的な成果を、さまざまな国からくみとる努力をおこなったそうでありますが、そのなかでも日本の教育基本法が参考にされたといいます。九年間の義務教育制度、それによって安定した義務教育の見通しをもって子どもの教育にあたれる。これも日本の教育基本法を参考にしたと聞きました。教育基本法の「人格の完成」をめざす教育――一人ひとりの人間としての成長を願う精神が生かされたといいます。

 いま求められているのは、子どもの権利条約など人類共通の原理とも合致し、世界でもその値打ちが注目されている、教育基本法を破棄することではけっしてありません。教育基本法を生かした教育改革こそ強く求められているのであります。(拍手)

 みなさん。幾重にも憲法に背反し、子どもたちの未来を奪う教育基本法改悪に反対する国民的運動を急速に広げ、このたくらみを阻止するためにがんばりぬこうではありませんか。(拍手)

 そしてこのたたかいのなかで、子どもたちの未来をひらく教育とは何かを大いに語り合い、一歩でも二歩でも、いまの教育をよくして、子どもたちの明るい未来をひらくために、おとなの責任をおたがいに果たそうではありませんか。(拍手)

 そのために、私たちもみなさんとともに力をつくす決意を表明して、きょうの話の結びとするものです。ご清聴ありがとうございました。(拍手)