2007年7月25日(水)「しんぶん赤旗」

陸軍病院壕跡・九条の碑

志位委員長が訪問

沖縄・南風原


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(写真)憲法九条の碑を訪れる志位和夫委員長(左)=24日、沖縄県南風原町

 日本共産党の志位和夫委員長は二十四日、参院選最終盤の遊説で沖縄県を訪れたのを機に、移動の合間を縫い、那覇空港から東南に車で約四十分、南風原(はえばる)町の陸軍病院壕(ごう)跡を訪ねました。沖縄戦の惨状を今に伝える戦跡で、参院選の最大争点の一つ、憲法九条を守り抜く決意を新たにしました。

 一般公開されたばかりの20号壕の入り口に到着した志位氏は、南風原町の元町長、金城義夫氏に出迎えられました。二人は、「はえばる九条の会」などを中心に壕入り口付近に建立され、六月二十三日に除幕されたばかりの「憲法九条の碑」の前に立ちました。

 「南風原は当時は村でしたが、沖縄戦により、住民の43%が犠牲になりました」。こうのべる金城氏にたいし、志位氏は、「それだからこそ、憲法九条にたいする沖縄県民の思いは極めて深く、特別なのですね」と語りかけます。金城氏は、「本土復帰闘争は、憲法九条のある日本への復帰を願ってのものでした」と応じます。

 碑のすぐ横には、「鎮魂と平和の鐘」と名づけられた鐘も。志位氏はこれを四回、鳴らしました。

 志位氏は、横幅、高さともに二メートル足らずの壕に入り、ベッドが置かれていたとされる場所や、火炎放射器で焼かれたと思われる天井部分や支柱などに目を凝らしました。ひときわ真剣な表情になったのは、天井に刻まれた「姜」という文字を見つけたときで、「朝鮮人兵士が、恐らく望郷の念もあり彫ったのでしょうか」と思いを巡らせました。

 上空で米軍ヘリが騒音を振りまく中、訪問を終えた志位氏は、「『ひめゆり学徒』の方々もここで働いていたとのことです。沖縄の地上戦の惨害、悲惨さがよみがえってくる思いで見ました。あの戦争で日本全国がどこでも大変な被害を受けたけれども、とくに広島、長崎、そしてこの沖縄の体験は、九条を生み出す上での大事な原点の地だということを実感しました」と語りました。


 南風原陸軍病院 約三十の壕からなり、米軍の艦砲射撃が始まった一九四五年三月下旬から使用されました。いわゆる「ひめゆり学徒」二百二十二人と教師十八人も看護補助要員として動員されました。米軍上陸後の同年五月下旬には本島南部への撤退命令が出され、その際、重症患者には青酸カリが配られ、自決の強要がおこなわれたとされます。

 南風原町は陸軍病院壕を文化財に指定し整備をすすめ、今年六月十八日に一般公開を開始しました。