2008年10月31日(金)「しんぶん赤旗」

日本共産党元副委員長

上田耕一郎さん死去


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 日本共産党中央委員会名誉役員、元幹部会副委員長・元参議院議員の上田耕一郎さんは三十日午前六時二十八分、慢性呼吸不全のため、都内の病院で死去しました。八十一歳でした。

 葬儀は、親族による密葬として三十一日におこなわれます。遺族は、妻高子さんと長男、長女。日本共産党前議長の不破哲三さんは、実弟です。「お別れ会」は後日おこなわれる予定です。お問い合わせなどは、東京都渋谷区千駄ケ谷四の二六の七 日本共産党中央委員会(電話03・3403・6111)まで。

 一九二七年三月九日、神奈川県生まれ。第一高等学校に入学。四六年十二月日本共産党に入党して、一高細胞を結成しました。東京大学経済学部卒業後、党東京中野地区委員などを経て、六四年党中央委員会理論政策委員になりました。

 第九回党大会(六四年)で中央委員候補に選出され、第十回党大会(六六年)で中央委員、その後、政策委員会責任者。第十一回党大会(七〇年)で幹部会委員、赤旗編集局長に就任しました。

 第十二回党大会(七三年)では「民主連合政府綱領についての日本共産党の提案」についての報告に立ち、この大会で常任幹部会委員。七六年には幹部会副委員長に選出されました。

 この間、七四年に参議院議員(東京選挙区)に当選し、以来、四期二十四年間、参議院議員として国会論戦の先頭に立ちました。田中角栄首相の金脈追及、それともかかわるロッキード事件や信濃川河川敷問題などとともに、安保・自衛隊問題、公団住宅・高速道路などの建設問題等々での論戦で、日本共産党を代表する“論客”として知られました。

 また、障害者問題の党議員団責任者として、障害者の要求と権利を守るために力をつくしました。この間、参院議員団長、国会議員団総会副会長を務め、また、九〇―九一年には選挙対策局長の任にも当たりました。

 議員を退いた後も、幹部会副委員長として活動し、党本部ビル建設委員会責任者、憲法改悪反対闘争本部長などを歴任し、憲法改悪反対闘争の発展に尽力しました。

 第二十四回党大会(〇六年)で名誉役員に推された後も、憲法改悪反対闘争本部員の任にありました。

上田さんをしのんで

志位委員長が語る

 日本共産党の志位和夫委員長は、三十日に国会内でおこなわれた記者会見で、記者団から上田耕一郎さんの死去について問われ、次のようにのべました。

 まず、上田さんといいますと、やはり国会での論客としての働きというのは、素晴らしいものがあったと思います。私の学生時代から、参議院議員をやっておられましたが、いろいろな追及の名場面を思い出します。

 ロッキード問題でも名場面がありましたし、リクルート問題でも名場面がありました。くらしの問題から、安保・平和の問題まで、国政の問題に本当に幅広く精通し、国会の予算委員会を舞台に、縦横無尽に論じる働きをされてきた。私たちは、学生時代から、上田さんのそうした姿にあこがれて、素晴らしい力をもっている政治家だと、何度も感じたものでした。まず国会でのさっそうとした勇姿が鮮やかに思い出されます。

 しかもお人柄は、天衣無縫といいますか、本当に太陽のような方で、一緒にいるだけで、その場が明るくなるような、そういう魅力の持ち主で、そうした点でも多くの方々から愛されていた政治家だったと思います。他党の方からも、政治的な立場の違いはあっても、信頼が寄せられていたのではないかと思います。

 理論的な面でも、日本共産党にとって、綱領路線の発展、あるいは自主独立の路線の担い手として、大事な働きをされてきた大先輩です。憲法九条を守り抜くたたかいには、最後まで大きな情熱を燃やされていました。今朝、訃報(ふほう)を聞き、党を築いてこられた私たちの身近な大先輩が亡くなったことに、大変寂しい思いです。