2010年5月11日(火)「しんぶん赤旗」

米国務省との会談での

志位委員長の発言(要旨)

――普天間基地問題について


 【ワシントン=小林俊哉】日本共産党の志位和夫委員長が7日に、米国務省内でケビン・メア同省日本部長らとおこなった会談(概要は「しんぶん赤旗」9日付で既報)の中での志位氏の発言のうち、日米関係、普天間基地問題についてのべた部分の要旨を紹介します。


「移設」方針は完全に破たんした

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(写真)米国務省でメア日本部長(右から2人目)と会談する志位和夫委員長(左から2人目)=7日、ワシントン(林行博撮影)

 日米関係についての私たちの見解をのべます。もとより私たちは反米主義ではありません。米国の独立革命、民主主義の歴史に大きな敬意をもっています。その観点から、私たちの立場を率直に伝えたい。

 沖縄問題をめぐる情勢の特徴は、一言でいうと、普天間基地を返還する代わりに、別の場所に「移設」するという方針が、完全に破たんしたということにあります。

 沖縄では、4月25日に9万人が集って県民大会が開かれました。県知事と県内の41市町村長(代理も含む)すべてが参加しました。「普天間基地閉鎖・撤去、県内移設反対」という島ぐるみの総意が揺るがぬものとなりました。私も参加しましたが、「どんな形であれ県内に新基地はつくらせない」という沖縄県民の総意は、いよいよ揺るがぬものとなったと強く感じました。

 その後、5月4日に、鳩山首相が沖縄を訪問しました。首相は「県内移設」という政府方針を持っていきましたが、これは県民の深刻な怒りの火に油を注ぐことになりました。首相の沖縄訪問は、沖縄県民の島ぐるみの団結をいっそう強固なものとする結果となりました。

唯一の解決の道は無条件撤去しかない

 私は、4月21日、東京でルース駐日大使と会談した際に、「沖縄の情勢は決して後戻りすることはない限界点をこえた」、怒りが沸騰点をこえたとのべました。「ポイント・オブ・ノー・リターン」(後戻りできない地点)ということです。私たちの判断は、「県内移設」という方針では、絶対に解決は得られない、県民の理解を得ることは絶対に不可能な、展望のない方針だ、ということです。

 「移設先」に名前があがった鹿児島県・徳之島でも島民の6割が参加する反対集会が開かれました。徳之島の三つの自治体の首長がそろって、政府に対し、受け入れられないとの立場を表明しました。

 この問題では、米国政府は「地元合意」がないところに基地はつくらないことを原則としていると聞いています。いまや沖縄県内はもとより、日本国内のどこにも、「地元合意」が得られる場所はないと、私たちは考えています。普天間問題解決の唯一の道は、「移設条件なしの撤去」しかない。すなわち無条件撤去しかない。これが私たちの見解だということを、米国政府にお伝えしたい。

「抑止力論」はまったく説得力をうしなっている

 海兵隊は、日本の平和をまもる「抑止力」だといわれますが、「抑止力」という言葉は、沖縄ではもはやまったく説得力を失ってしまっています。

 「抑止力」というが、沖縄の海兵隊が展開しているのは、イラクであり、アフガニスタンではないですか。普天間基地の海兵隊は、1年のうち、半分はいない。これがどうして日本の平和をまもる「抑止力」なのか。これらの疑問に答える説得的な説明はなされていません。また説明することはできないでしょう。

沖縄返還時と同じような決断が求められる歴史的岐路

 沖縄県民の怒りの根源には、凄惨(せいさん)な地上戦を体験し、占領時に土地を強奪され、戦後65年にわたる基地の重圧のもとで、痛ましい事故や事件が繰り返されてきた歴史的な怒りの累積があります。

 ここで一つ、歴史について考える必要があります。かつて、1969年、日米両国政府は、沖縄の施政権返還で合意しました。これは、沖縄と日本本土の大きなたたかいにおされたものでした。このときの決断は、沖縄の施政権を放棄したサンフランシスコ条約第3条の壁を越えたものでした。条約上は不可能なことを決断したのです。

 私たちの判断は、同じような決断が求められる歴史的岐路に、いま日米関係が立ち至っているということです。

 私は、情報公開された、沖縄返還にいたる過程で米国の国務省、国防総省、在日大使館などが交わした関連公文書をすべて読みました。そこには、国務省と国防総省との激しいやりとりがあります。そこに出てくるのが、「ポイント・オブ・ノー・リターン」という言葉です。国務省側がそういう判断をして、返還にいたりました。

 いまはまさに、そういう歴史的岐路に立っているというのが、私たちの立場です。

 沖縄の県民大会では、こういう発言を聞きました。普天間基地を抱える宜野湾市長の発言です。「もしも県内移設を強行するなら、沖縄からすべての米軍基地の撤去を求めることになるだろう」という発言です。嘉手納町の町長は、私との会談で、「日米安保条約の是非そのものを考えなければならない」とのべました。

 県民の怒りがここまで深いものとなっているという、この事実を直視する必要があります。

 日米安保条約の問題でも、海兵隊の「抑止力」の問題でも、(米国政府とわが党は)立場が違います。しかし、県民の合意が絶対に得られないということは事実です。この事実を直視しなければなりません。事実を直視すれば、無条件返還しか解決の道はありません。

立場が異なっても意見交換をはかるのは民主主義の基礎

 (志位氏の発言に対し、米側は従来の立場をくりかえし説明しました。ただ、最後に、米側は、「見解が違っても意見交換するのは有益であり、民主主義の基本です。これからもつづけましょう」と発言。それを踏まえ、志位氏は、次のように会談を締めくくりました)。

 それは重要なことです。きょうの会合で一致した点は、異なる立場であっても、意見交換をしていくということです。それが民主主義の基礎だということには、全面的に同意します。

 4月21日に、東京でルース駐日大使と会談したさいにも、ルース氏は「立場の違いはあっても、敬意をもってオープンなコミュニケーションを持つことが重要と考えています」とのべました。今後も意見交換をつづけましょう。

 きょう、私は、「リンカーン記念館」に行きました。私は、米国の民主主義の歴史的伝統には深い尊敬の念をもっています。そして、きょうの発言は、ほんとうの日米の友好関係の確立を願う立場からのものだということを、重ねてのべておきます。