志位和夫 日本共産党

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演説・あいさつ

2024年3月31日(日)

戦前の日本共産党員 田中サガヨさんについて

山梨県北杜市で志位議長が語る


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(写真)田中サガヨ

 日本共産党の志位和夫議長は24日、山梨県北杜市で行われた「志位さんと希望を語る わくわく懇談会」で、戦前、迫害と弾圧によって若くして命を落とした日本共産党員、田中サガヨさんについて語りました。

 私たちは、昨年、『日本共産党の百年』史を編さんして、戦前の歴史についても今日的な視点にたっての叙述をおこなったのですが、そのなかで、4人の女性党員の不屈の青春について紹介しました。

 今日、4人の女性党員の写真をもってまいりましたが、私は、この間、そのうち3人の先輩同志の闘いについて、お話しする機会がありました。飯島喜美さんについては党創立101周年記念講演(2023年9月)で、高島満兎(まと)さんについては日本民主青年同盟第47回全国大会(同年11月)で、伊藤千代子さんについては長野県上田市の懇談会(24年2月)で紹介してきました。今日は、田中サガヨさんについてお話しさせていただきたいと思います。田中サガヨさんは、山口県出身ですが、この山梨県にゆかりの方ががんばっておられるとうかがい、今日のこの機会に少しまとまって話したいと思います。

「赤旗」(せっき)を全国にとどける要の部署でがんばる

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(写真)4人の女性党員の写真を掲げる志位和夫議長=24日、山梨県北杜市

 田中サガヨさんは、1910年に山口県豊浦郡豊田町で、酒造業を営んでいた家の三女として生まれ、養女に出されるなどたいへんに苦労して育ちました。

 サガヨさんは、長府高等女学校を卒業後に、五つ年上のお兄さん――田中堯平さんをたよって上京します。堯平さんは東京大学の読書会に参加して、日本共産党に近づいていき、いまの「しんぶん赤旗」の前身である「赤旗」(せっき)の読者になっていました。堯平さんはサガヨさんに、たいへんに大きな影響を与えるのです。

 お兄さんから聞く社会の矛盾や社会主義の話に、サガヨさんは深く共感し、どんどん成長し、1932年に日本共産党に入党します。そして、「赤旗」の中央配布局で活動するのです。当時の「赤旗」は、戦前でいちばん活動が盛んだった時で、活版刷りで写真も載せた。最大時には読者が7000人、回し読みされましたので数万の読者がいました。田中サガヨさんは、この時期の「赤旗」を、全国にとどける要の部署でがんばりました。お兄さん――堯平さんの「赤旗」も、サガヨさんが届けたといいます。当時のサガヨさんを知る人は、「静かな、考え深い感じの人で、頼りがいのある魅力のある人」だったとその人となりを伝えています。

 当時、日本共産党の党員は、非合法で、「赤旗」配布のための交通費や生活費にもこと欠く、ぎりぎりの生活をしながらがんばるという状態でした。サガヨさんは、1933年12月27日、空腹で公園で手洗いの水を飲んでいるところを特高警察に怪しまれ、逮捕されました。ちょうど宮本顕治さんが逮捕された同じ時期のことです。

 市ケ谷刑務所で、ひどい拷問をうけ、劣悪な待遇で衰弱し、35年4月にやせ細った状態で重体に陥り、執行停止になり、5月に東大病院で亡くなりました。24歳のことでした。

チリ紙に記された手紙――「いばらの道」でもがんばりぬく

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(写真)(資料)田中サガヨさんが岡藤フサさん宛てにチリ紙に書いた手紙

 田中サガヨさんの活動の記録はあまり残されていないのですが、私は、今回、いろいろと調べてみまして、二人の方が田中サガヨさんの生き方に深く感銘して、その姿を現代に伝えているということを紹介したいと思います。

 一人は、義理のお姉さんの岡藤フサさんです。たいへんに優しい方で、サガヨさんはフサさんをたいへんに慕っていたといわれています。岡藤フサさんは、サガヨさんの生き方に深く感銘し、当時の手紙など遺品を大切に保管され、今日に伝えてくれました。

 ここに写しを持ってきましたが、岡藤フサさんあてにサガヨさんが看守の目を盗んで、チリ紙に鉛筆で走り書きで書いた手紙です。党史資料室で保存しているもののコピーです。その一節を紹介します。

 「お姉さんお久しうございます。何時も失礼ばかりお許し下さい。……今又私は捕われの身となっております。去年の暮の二十七日の晩にやられました。御安心下さい。身体はすこぶる達者です。留置場に入る者は全部の人が悪いと言うのでは決してありません。警察は国家権力という絶対権力によって(支配)されています。この信念をまっとうする上においては如何(いか)なるいばらの道であろうと、よしや死の道であろうと覚悟の前です。お姉さん、私は決して悪い事をしたのではありません。お願いですから気をおとさないで下さい」

 そして、お兄さんに連絡してくださいと頼んでいます。自分を理解し優しくしてくれたフサさんにたいする思いやりと同時に、「如何なるいばらの道」でもがんばりぬくという決意がしたためられています。

お兄さん――田中堯平さんの『白骨賦』から

 もう一人は、田中サガヨさんのお兄さんの田中堯平さんです。堯平さんは、妹の死を深く悼んで、回想的な一文を書きます。『白骨賦』と題する詩に託して書いた一文です(1935年、同人誌『ノイエツァイト』)。これも党史資料室から写しを持ってきたものですが、堯平さんの手書きの原稿です。妹の死を悼んで、慟哭(どうこく)する堯平さんの気持ちが切々とつづられています。

 まずここで述べられているのは、サガヨさんのめざましい成長ぶりに驚く兄の姿です。

 「純真であったればこそ、白紙の様に、何が正義で何が邪悪かを敏感にかみ別け、俺(堯平氏)の言うことを、恐ろしい速度で呑み込んでいったなあ」「一度燃え上がった火は、もみ消すべくもなかった、お前はどんどん成長していったよ」

 この一文のなかでとても感動的な部分は、サガヨさんが日本共産党に入ろうかなとお兄さんに相談したときのやりとりです。

 「『わたし本格的にやって見ようかしら』…『兄さんどう思ふ?』と詰め寄られて、流石(さすが)に返答に窮してたとき、俺は逆さにお前からねじ込まれたね――理論的に、堂々と」

 このサガヨさんの問いかけに対して、堯平さんは、「一命を棄てる覚悟だらうね。途中で逃げ出す位なら、始めからやらない方がましだよ」と答えます。この答えについて、堯平さんは『白骨賦』で、「何と間違いだらけの答をしたことだろう。俺の心の隅には、脅して事を思ひ止らせようとする卑怯な気持ちさへあった」と語っています。サガヨさんの決意を抑えるようなことを言ったことを深く悔やみます。

 お兄さんのこの答えに対してサガヨさんは何と言ったか。「勿論よ、私も随分考えてのことよ、軽はづみなことなど決していたしません。けれど、一命を棄てるの、覚悟の、そんな神懸りの言葉はどうかと思うの。私の聞きたいのは、私のやうなものでも、一生懸命やれば何かできるかしら……」

 サガヨさんは「一命を棄てるの」ということでなくて、自分は何かできるだろうかということを聞きたかったんだと問い返すのですね。この問い返しに対して堯平さんは、「俺はもう返す言葉は無かった。お前は遂に言葉通りにやってのけた」と語っています。

 この道をすすめば厳しい前途が待っていることを理解しての、この兄妹のやりとりは、深く胸を打つものがあります。田中堯平さんの『白骨賦』は、「お前は知性と良心に従って、いつわりの無い一生を貫いた」と、妹のことを本当に誇りに思うという言葉で結ばれています。

「サガヨは勇敢にたちむかっていったことが忘れられない」

 田中堯平さんは、1945年、戦後まもなく日本共産党に入党します。そして、49年の総選挙で山口2区から衆院議員に当選します。当選は1回きりなのですが、山口駅近くに法律事務所をつくり、県内の労働運動、農民運動、業者運動の相談のすべてがこの田中堯平法律事務所に集まったそうです。63年に亡くなられたときの県党葬には、社会党、県評・労働組合の幹部をはじめ1000人の県民が参列したといいます。戦後、日本共産党員として、そういう生涯を貫いた方です。

 山口県で、日本共産党の県委員長をやられた加藤碩(ひろし)さんに、今回、田中堯平さんの思い出についてお聞きしました。加藤さんは山口大学に1960年に入学し、そこで入党したのですが、田中堯平さんは山口大学に共産党の組織をつくることに最晩年にたいへん熱心にとりくみました。「お前たち、腹を空かせているんだろう」「飯を炊くか」と食事をさせてもらったことを思い出すと言います。学生をそうやって助けながら、1年間で3桁をこえる党組織をつくりました。

 弁護士事務所で、堯平さんは、サガヨさんのことについて、「自分はサガヨに(共産党の活動を)『やってみようか』といわれて震えが止まらなかった。俺はちゃんとこたえられなかった。サガヨは勇敢にたちむかっていったことが忘れられない」と語り、「サガヨの思いをくんで入党してくれ」と入党の訴えをしていたそうです。

 田中サガヨさんが勇気をもって立ち向かい、「いばらの道」を貫いた、その生き方がお兄さんの心の中に光となって生き続け、戦後の活動の大きな支えになっていったのだと思います。

 私たちは、そういう先輩を持っていることを、ぜひ知っていただきたいと思います。

歴史は道理に立って不屈に闘うものがつくる

 冒頭に紹介した4人の女性のなかで、伊藤千代子さんは20世紀の日本を代表する歌人・土屋文明さんをして、「こころざしつつたふれし少女よ……」との短歌を詠わせるような情熱的な生き方をした女性です。飯島喜美さんは、東京のモスリン工場でストライキを組織し、国際的な労働分野でも、党中央の女性運動でも重要な足跡を残した女性です。高島満兎さんは共産青年同盟でたくさんの若者を組織するなどの素晴らしい働きをした女性です。みなさん、本当にいちずな生き方を貫いて、今日につながるような大きな足跡を残してきた人々だと紹介したい。

 「日本共産党がどうして102年続いたか」というご質問でしたが、続いた理由として、「どんな困難にも負けない不屈性」ということを述べました。そこには多くの犠牲もあったけれども、私たちの先輩たちの闘いは、日本国憲法に実ったじゃないですか。憲法に恒久平和主義と主権在民が明記されたことで実った。

 やはり歴史というものは、そうやって道理に立って不屈に闘うものがつくっていくものだと思います。そういう歴史を日本共産党がもっていることを、私たちは大きな誇りとしています。時代は異なりますが、社会の不合理を見過ごさない、不当なことに屈しない、そういう生き方を先輩たちの生き方から学びとっていきたい。また、そういう生き方をともにしようではないかということを呼びかけたいと思います。